ペリカン文書
 最高裁判所の前には暴徒が集まっていた。
 様々なプラカードを掲げた、インディアン、黒人、白人、黄色人、女、ゲイ、森林愛好者、クリスチャン、中絶推進運動家、ネオナチ――膨大な数の抗議者たちが人の海を作り、うねる。
 眼下の光景を楽しげに見下ろす男は、これだけの混乱を起こしたとはとても思えない姿をしていた。
 当年91歳、全身麻痺で車椅子に縛り付けられ、酸素ボンベがくくりつけられ・・・、それでも彼の法の杖の威力は他の8人の裁判官には比肩すべくもない。このエイブラハム=ローゼンバーグこそ、合衆国最高裁判所の伝説的な人物なのだ。
「プラカードが見えるかね?」
 ローゼンバーグは背後の人物に問いかけた。
「ええ。」
 青年が頷くと、長い金髪がさらりと零れた。
 驚くほど容姿の整った青年だった。
 190cmはある長身は細身だが、スーツの下に鍛え上げられた肉体があるのは見る目さえあればすぐに分かる。
 腰まで届く長い金髪に、晴れ渡った空のような蒼い瞳。モデルでもそうはいないだろう美貌には、鋭い表情がよく似合う。
「プラカードには何と書いてある?」
 ローゼンバーグが尋ねた。
「ローゼンバーグに死を。ローゼンバーグを引退させろ。酸素ボンベを止めてしまえ。」
 青年が読み上げると、ローゼンバーグはにやりと笑った。
「ふん、代わり映えのしない文句だ。偶には新趣向のものをもってくればいいものを。」
 楽しそうに笑う老人は、まだまだ死にそうに無い。
 実際、彼がどうしても自分でやるといって聞かない判決意見書は他の裁判官の倍の時間を掛けて掛かれるが、調査官が校正してもミスの発見をすることは一度も無い。終身在任権を保障されているから、本当は時間を気にする必要も無い。
 ローゼンバーグのイデオロギーは実に単純明快だ。政府は産業に優先し、個人は政府に優先し、環境は全てに優先する。そして、インディアンには欲しいものは何でもくれてやれ。
 偉大なる老人を前に、金髪の青年ガウリイ=ガブリエフは、口を開いた。
「激化するこの状況をどう思われますか?」
 彼はモデルでもハリウッド俳優でもなく、新聞記者だった。ここには、インタビューに来たのだ。
 ローゼンバーグは肩を何とか竦めて見せた。
「ホワイトハウスの策略さ。他者を対立させて、まんまと政権の座につく。そのために悪戯に中産中流階級の意識を煽っておる。」
「なるほど・・・。」




 トーマス=キャラハンはテューレーン大学の人気教授のひとりだった。人気の第一には、彼は午前十一時以前には絶対講義を担当しないことがある。彼は大酒のみで、朝の数時間は睡眠と蘇生のために絶対必要なのである。第二には、彼がクールな点にある。うっすらと無精ひげ。色褪せたジーンズにツイードのジャケットを愛用。靴下ははかず、ネクタイは締めないリベラル・シックな大学人の典型だ。年齢は45歳だが、腹は弛むどころか引き締まり、髪は黒々とし、角縁眼鏡を掛けている彼は35歳といっても通用するだろう。彼はまた、女子学生との親密な交際ぶりでも数々の伝説を残している。第三の理由として、キャラハンは憲法学を教えているのだが、退屈極まりないこの授業が、彼の手に掛かると血沸き肉躍る学問へと変化するのである。ゆえに、午前11時からのこの講義をサボる者は極めて少ないという奇跡が起こっている。
 キャラハンは11時5分を指す自分の腕時計を睨んだ。
 まだ早朝じゃないか、まともな人間の起きる時間じゃない。
 苛々と教室をぐるりと眺め、口を開いた。
「さて、話し合いより暴力の先行する社会では、感情が理性より大きな比重を占める。」
 キャラハンは些か血走った目で室内を見回した。
たちまち80人の生徒全員が目を伏せ、教室内は静まり返った。
 キャラハンは二日酔いに違いない、彼がこういう表情のとき、必ず講義は荒れる。
 死のような沈黙の降りた教室。
がちゃり
 唐突にドアノブの音が響き、室内の緊張を打ち破った。
 洗いざらしのジーンズとコットンのセーター姿の小柄な女が入ってくる。
 栗色の豊かな髪。白い顔はビスクドールのように整っているうえに、小柄で華奢な肢体はどうしたって儚さの具現に見える。それにも関わらず、大きな真紅の瞳の苛烈な光が彼女を彩り、儚さを払拭し強く輝かせる。
 彼女はいわゆる学生時代に男子学生の半数が二回は恋に落ちるチアリーダーとは全然違うにも関わらず、彼女は男子のみならず女子までも惹きつける存在感を放っていた。
 二年間の過酷なロースクールの生活の中で、彼女のよく動く口と度々起こす物騒な騒ぎは学生たちにとって素晴らしい娯楽のひとつとなっていた。
 キャラハンは彼女には目もくれなかった。これが、おどおどと遅刻してきた一年生ならば5分はかけて「法廷に遅刻は許されないんだぞ。」の決まり文句を浴びせるところなのだが。
 キャラハンは栗色の髪の女リナ=インバースに毒舌を浴びせたい心境ではなかったし、リナもキャラハンを恐れてはいなかった。
 オレがリナと昨夜も呑んでいたことを誰か知っているのだろうか。
 ちらりとキャラハンはそんなことを考えた。キャラハンとしては誰にも知られたくないのだ。
 リナが隣の席で心配そうにしているアメリアに笑いかけた。その輝くような笑みに目を奪われまいと、キャラハンは口を開いた。
「利己主義は自由に対する脅威だ。」
 再び室内の視線はキャラハンへと戻る。
「ハードウィック裁判を見てみよう。ハードウィック氏の路上飲酒の罰金未納について令状が出た。警官が令状をもって彼の家に入ると、氏は男性とベッドをともにしていた。」
 幾人かの学生がくすりと笑った。
「彼はその場で逮捕された。ジョージア州では同性愛は禁止されているからだ。だが、ハードウィック氏は州法は違憲だと申し立てた。その主旨は?」
 ばらばらと手が上がる。
「サリンジャーくん。」
「プライバシーの侵害だからです。」
「なぜ?・・・セーガン。」
「自宅で何をしようと彼の勝手です。」
 キャラハンはにやりと笑った。罠に嵌ったような心地に幾人かの学生は陥る。
「だが、自宅で麻薬の売買や幼児虐待をしていた場合はどうなる?」
 楽しそうなキャラハンにほとんどの学生はばっと目を伏せたが、アメリアがまっすぐに手をあげた。
「ミズ=セイルーン。」
「それは個人的権利に含まれません!最高裁をプライバシーの範囲を制限しています!自己の人格と生活に関ることのみが認められているのです!!」
 妙に胸を張ってこたえる愛らしい黒髪の女性にキャラハンは苦笑を漏らしたが、無理に眉根を寄せて見せた。
「しかし、その自己定義は憲法に明文化されていないし、人格規定にもないんだ。」
 再び、教室内はしん、と静まり返った。
 ゆっくりとリナ=インバースの手が上がった。
 教室全体で、ひとつにまとまった安堵の吐息が漏れる。
 またしても、リナが全員を救ったのだ。これこそ、リナが皆に期待されている行為だった。スキップで20歳という年齢でここに存在する彼女はクラス第一位の成績の持ち主である。彼女はキャラハンの投げつけてくる裁判のほとんど全てについてすらすらと答えることができた。この愛らしい外見の持ち主は生物学の学位を優等で取得し、さらに法学でも優等で学位を取ることを目指していた。卒業の後は環境破壊の罪状で化学工業の会社を片っ端から起訴し、優雅な生活を送る予定である。
 キャラハンは不機嫌そうな表情を無理矢理作ってリナを見詰めた。昨日、酒を飲みながら語り合って様々なことを話題にしたが、〈プライバシー〉のプの字も出した覚えは無い。
「では、ミズ=インバース。」
「はい。彼の性行動は州法で規制することができます。憲法は州の行政権を保証しているからです。しかし、プライバシー尊重の建国精神に違反しています。」
「ふむ・・・。だが、最高裁は州法を合憲とした。なぜだ?」
 キャラハンの問いにリナの紅い瞳がきらりと光った。
「馬鹿だから。」
 挑むような眼差しは恐ろしいほど魅力的で、キャラハンは苦笑した。
 ロースクールに魅力的な女学生はめったにいない。特に、頭の中身まで魅力的なのは希少価値がある。そんな女性を見つければ、キャラハンはすぐ行動に移していた。ロースクールに来るような女は大抵開放的で放埓である。しかし、リナは違った。まず、その鮮やかな眼差しに惹かれたのはリナが第一学年にいた2学期。しかし、夕食に誘い出すまでに3ヶ月もかかったのである。そして、現在もなかなか一線を越すことができずにいる。
 



 とあるホテルの一室を男は歩いていた。
 中肉中背、生え際が少々後退しつつあるが黒々とした髪にたっぷりとした口ひげ。よく見るとがっちりとした肉体をしているが、無害そうに見える男だった。ただ、そのこげ茶色の瞳は石のように冷たい。
 男は508号室の前で立ち止まり、ノックした。
「ミスター=スネラーを探している。」
 男が言うと、ドアの下からするすると封筒が出てきた。
 男はそれを拾うと、何事も無かったかのようにその隣の部屋のドアを開いた。
 中に入って、封筒を開く。
 中には裁判官の並んだ写真が入っていた。その内2人の顔に赤い丸印がついていた。
 男―カーメルは事前に知らされていた必要な情報を思い出す。
 備え付けの電話に手を伸ばし、508号室につなぐ。
「スネラーか?」
「ああ。」
「いつまでだ?」
「早ければ早いほど。」
「今夜の予定だ。明日には残りの500万をスイス銀行に。」
「確認次第入れる。」
「車は?」
「白のフォード。ナンバープレートはコネティカットのもの。盗難車だ。」
「空港で乗り捨てたら破壊してくれ。」
「分かっている。」
「では。」
 一旦電話を切って、カーメルはフロントに今度は掛けた。
「ホットとハムエッグのセットを。」
「かしこまりました。」
 カーメルは受話器を置くと、もう一度、写真を眺めた。

 その晩、カーメルは濃いブルーのジャージ姿でローゼンバーグの家のクロゼットにいた。
 激化するデモを懸念して、FBIの捜査官が通りの向こうの車内にいることは知っていたが、どうせこちらに目を向けることなど無い。
 ローゼンバーグが眠りについた気配を感じてからもしばらく、カーメルはじっとしていた。護衛警官のフレッドがFBIに報告に行ったことを確認してから彼はクロゼットを出た。
 もう一人の護衛警官ジェイスンと看護士グレイは居間でテレビをつけたまま、いびきを掻いていた。
 サイレンサー付の22口径を取り出し、3発ずつ打つ。
 それから、ベッドで死んだように眠るローゼンバーグの米神にも3発。
 白いシーツに幾つもの染みができる。
 裏口から戻ってきたフレッドが鍵を閉め、廊下に出たところでやはり3発。
 カーメルは窓から外をそっと覗いた。
 FBI捜査官は車内で読書中だ。
 薄く笑って裏口から出て鍵を閉めた。
 次に向かったのは、ゲイの集うポルノ映画館だ。
 裁判官ジェンセンが5列目に座っているのを発見する。
 ちらほら見える客はすべて眼前の映像に釘付けになっていて、カーメルに注意を払うものはいない。
 ぴったりとしたジーンズに黒いシルクのシャツ、撫で付けられた口ひげ、イヤリング。カーメルは典型的なゲイに見えた。
 ゆっくりとカーメルはジェンセンの斜め後ろの席に腰を下ろした。
 ポップコーンを何度か口に運ぶ。
 そろそろとシャツの下から、ビニル製の太いロープを取り出す。
 クライマックスに向かう煩い館内。
 素早くジェンセンの首にロープを巻きつけ、座席に押し付けた。
 頚椎がかくりと折れた。
 手早くロープを抜き、ポップコーンの箱に入れる。
 ものの10秒とかからなかった。
 カーメルは席を立ち、悠然とした足取りで映画館を後にした。
 白のフォードを運転し、空港へ向かう。
 銃とロープを入れたまま、車は放置する。連中が片付けることになっているのだ。
 スラックスとジャケットに着替えたカーメルは、パリ行きの飛行機をゆっくりと待った。


何年も前に映画になったので、ご存知の方も多いかと思います。
無謀にも、こんなサスペンスに挑戦してみたり。
(2005 3/21) about