6
 朝の光が眩しくて、リナは目を瞬いた。
 自慢の栗色の豊かな髪を手櫛で梳きながら、ベッドから降りて居間へ向かう。
 テーブルの上の花瓶に生けてある薔薇に、リナは口元を綻ばせた。
 昨夜遅く、キャラハンがリナのアパートメントを訪ねてきて、薔薇の花束を置いていったのである。
 討論で男の顔ばかり見ていたから君に死にそうに会いたくなった、等と言いながらキスをしてきた。
 そういえば、父ちゃんも薔薇が好きだっけ・・・。確か、プロポーズのときに薔薇を母ちゃんに贈ったとかなんとか。
 リナはふと父親を思い出した。
 リナは父親っ子で、姉が厳しい分、よく父に甘えていた(母は姉以上に食わせ者だったのだ)。高校の頃も彼の服を無断借用してはルーズに着こなした。父親の服を着て街を歩いている自分が最高に格好いいと思っていた。
 もし、父が生きていたらキャラハンの4つ年上だったはずだ。母は3つ上。姉は仕事で世界中とび回っている。
 姉のことを極力考えないようにしながら、リナは父親のことを考えた。
 両親が死んで半年は思い出すだけで涙が流れたものだ。リナが自分の悲しみを見詰めることができたのは、優秀な姉が飛行機会社を相手取る訴訟でもその能力をいかんなく発揮し勝利を収めてくれたお陰である。雇った弁護士も下僕扱いするほど、姉は恐ろし・・・もとい、素晴らしかった。
 父ちゃん、格好よかったのよね・・・。年齢不詳の美形ってやつ。トーマスより父ちゃんのが格好いいかも・・・。
「ん?」
 飽きることなく父親の顔を思い浮かべていたリナは、ふとキャラハンと父親を比べている自分に気づいた。
「父ちゃんは父ちゃん、トーマスはトーマスじゃないっ。」
 慌ててリナは頭を振った。
 確かに自分にはファザコンの気があるかもしれない。亡くしてしまった分、憧れも大きくなっているかもしれない。でも、キャラハンはキャラハンなのだ。
 あたしはトーマス=キャラハンが好き。
 リナは薔薇の花を見て、微笑んだ。
 45歳で本気の恋をした男は少年のように可愛い行動をとる。
 最初、図書館で声を掛けられたとき、驚いた。キャラハンは女子学生の間でも手が早いと噂されていた。リナは自分がそそるタイプの女ではないことを分かっていた。だから、冗談だと最初は思ったのである。だが、キャラハンは諦めることなくリナに声を掛け続けた。その瞳に甘い熱を見て、リナは本当に驚いたが、嬉しかった。
 キャラハンはキスが好きだ。セックスをしていない代償の意味もあるかもしれないが、リナに何度もキスをする。
 トーマスとのキスはどきどきする。だから、あたしはトーマスが好き。
 リナはキャラハンとのことを思い出しながら、ふいに沸いてきた妙な罪悪感じみた感情に蓋をした。

 アパートメントの玄関から出てきた小柄な女は駐車場へと向かっていた。
 タイトなジーンズにルーズなニット。髪は腰までとどく栗色。顔立ちはよく整っている。
 間違いない、例の女だ。
 道の脇に止められたフォードの中で、一人の男が女を観察していた。
 銀色の髪に、青白い肌、鋭い眼。鍛え上げられた痩身も、男の印象をシャープなものにする。
 彼は彼女が大学に入ったのを見届けてから、車を公園の近くへ移動させた。彼女の今日の講義が5時までなことは調査済みだった。
 公園のベンチに腰掛け、2時になってから紙袋を開いて、まずバナナを取り出して皮を剥き、齧った。
 ほどなく、顔を知っている男が現れたのを見ながら、彼は上司を胸中で罵った。
 合図にバナナを使うことを考えたのは上司で、上司は彼がバナナのような甘いものが苦手だと知っていたのだ。
 無表情でバナナを齧っていると、顔見知りの男ブッカーが隣に腰掛けた。
 彼らはお互いの上司が、意思疎通のラインがもつれたり狭まったりして、他人に聞かれたくない話をする必要が生じたときに、ここで定期的に顔を合わせることになっていた。
「ミスター=ガーヴの様子は?」
 ブッカーは缶コーヒーを口に含み、肩を竦めた。
「相変わらず怒り狂ってる。いつもどおりさ。そうそう、ゼロスは昨夜遅くまでホワイトハウスにいたな。」
 男はそれには反応しなかった。ガーヴがそのくらい知っているのは当然だからだ。彼はゆっくりと口を開いた。
「あっちじゃパニックだ。ささやかんペリカン情報でやつらは震え上がっている。俺たちも読んだ。おたくらがこれを本気にとってないことは分かったが、フィブリゾが何故か怯えていて、そのせいで大統領も浮き足立ってる。俺たちはおたくらがちょっとした冗談を仕掛けたんだと睨んでる。あの文書には大統領の名前が記述され、例の写真も入ってるからおたくらがふざけたんだろうとな。」
 ブッカーは黙って缶コーヒーを見ているので、彼は話を続けることにした。
「とにかく、俺たちは無関係だ。そのはずだった。だが、大統領は密かに『ペリカン文書』について調査しろ、と言ってきた。おたくらが何も見つけないうちに、だ。俺たちが何も見つけないことを確信しつつも、それが分かればガーヴに手を退かせられるから、と言う。」
 ブッカーはゆっくり口を開いた。
「あれには何の意味もない。」
「やはり、ガーヴが愉快犯を演じてるのか。」
「あらゆる手がかりを追いかけてるんだ。」
「しかし、真の容疑者はいない?」
「ああ。・・・どうして連中は我々があの件を調査するのを嫌がるんだ?」
「奴らにとっちゃ単純な話だ。ブライスとマクロレンスの名が漏洩したのに激怒してる。で、ガーヴに不信感を抱いたんだ。で、おたくらが『ペリカン文書』についてあちこち調べまわったら、大統領の支持率が下がるんじゃないかと心配してるのさ。再選を賭けた選挙は来年だからな。」
 淡々と語る言葉に、ブッカーは頷いた。
「なるほど。で、ゼロスは大統領に何て言った?」
 彼は苦笑を浮かべた。
「おたくらの捜査の邪魔はしたくない、他にも仕事がある、その捜査は違法行為だ、と。しかし、大統領は懇願するし、フィブリゾは脅してくる。とりあえず、やることになった。だから、おたくに話してるんだ。」
「ガーヴ長官は感謝してるよ。」
「調査は今日からだ。しかし、馬鹿げている。俺たちは流れに足を踏み入れないように流れを観察する。1週間もしたら、根も葉もない出鱈目だったと報告することになるだろう。」
 彼は面倒くさそうに言った。
 ブッカーは立ち上がった。
「分かった。ガーヴにそう報告する。ありがとう。」
 去っていく背には視線を向けなかった。
 彼は齧りかけのバナナを袋に入れ、ハンバーガーを齧りだした。


昼をデスクでとった後、ガウリイはパソコンを睨んでいた。
何の文章も浮かんでこない。
 長い金髪をぐしゃぐしゃに乱してから、キーボードに手を置いてみる。
ジリリリリ
 ガウリイは受話器をとった。
「ワシントン・ポスト紙のガウリイ=ガブリエフだ。」
〈ガルシアです。〉
 ガウリイはキーボードから手を放し、ペンをとった。
「ああ。どうしたんだ?」
「質問が2つあります。1つめは、この電話は録音しているかどうか。2つ目は、逆探知が出来るかどうか。」
「ノーでもあり、イエスでもある。録音はまず相手の許可がいる。逆探知はできるが、普通はしない。・・・この前は仕事場には電話しないと言ってなかったか?」
「電話しないほうがよかったですか?」
「いや、大丈夫だよ。早朝ベッドでとるよりずっといい。」
「すみません。怖かったものですから。こちらが貴方が信用できると考える限り、お話します。けれど、一度でも嘘をつけば、二度と話はしません。」
「それでいいさ。で、いつ話してくれるんだ?」
「今は無理です。ここはダウンタウンの公衆電話で、急いでいるので・・・。」
「何かコピーをもっていると言っていたよな。」
「手に入るかもしれない、と言ったんです。」
「そうか。次はいつ電話をくれる?」
「決めておく必要があるのですか?」
「いや、ただ、俺は会社にはいないことも多いから。」
「では、明日の昼休みに。」
「わかった。明日はここにいることにする。」
 電話は切れた。
 ガウリイは何桁かの番号を押した。
 公衆電話はペンシルヴァニア・アベニューの司法省の近くのものだった。


 ディナーのデザートの頃、リナは苛々しだした。
 リナは白ワインを1杯だけだったが、キャラハンはワインを2本空け、ダブルのスコッチを2杯飲んだ。飲む毎にキャラハンはだらしなくなっていった。
 リナが酒量を数えだすと、キャラハンも怒り出した。
 キャラハンはデザートの代わりにドランブイを注文した。酒好き主義を曲げる気がないという意思表示だった。
 おかわりを注文するキャラハンをリナは睨みながら食後のコーヒーを飲み干した。
 レストランを出て、リナは小さな手を差し出した。
「車のキー貸して。そんなんじゃ運転できないでしょっ!」
 キャラハンはふらつきながら、手を振った。
「いやだね。」
 キャラハンはキーを握り締め、リナの手が届かないように高々とその手を上に上げた。
「とれるもんなら、とってみろよ。」
「何馬鹿なことしてんのよっ!!」
 リナの怒りの声も聞かず、キャラハンはふらふらと駐車場へと進む。
 キャラハンの千鳥足姿に、リナは恥ずかしい思いをしながらも追いかけた。
「そんなんじゃ運転できないでしょ。」
「君よりはうまいさ。」
 へらへらと笑いながら、キャラハンは歩を進め、縁石に足を引っ掛けて転んだ。
「トーマス!」
 リナは駆け寄ろうとしたが、キャラハンは自力で起き上がった。
「ほっといてくれ!!」
 リナは怒りも覚えていたが、彼がこのまま運転するのも危険だと思い、心配しだしていた。
「あたし、歩いて帰るわよ。」
 暗い夜の通りを1人で歩くのは、普通の女性には危険なことである。
「好きにしろよ。」
 普段、助手席にリナを乗せたがるキャラハンは笑ってふらふらと歩いていく。
 リナは少し呆然とその姿を見送ってしまった。
 こんなに酔ったキャラハンは初めてだった。
 呆然としている内に、キャラハンは停めていたポルシェのドアを開けた。
 キャラハンはリナを振り返った。
 華奢な身体に青いシフォンの流れるようなワンピースを纏ったリナは綺麗だった。
 キャラハンはリナに向かって手を振った。
「君は最高の女だよ!!」
 そう言って、ポルシェに乗り込む。
 リナは呆れた顔でそれを見ていた。
 事故する前に、警察に捕まっちゃえばいいけど。
 自分のアパートメントはここからけっこう遠い。タクシーに乗るしかないだろう。
「トーマスの馬鹿!!1週間は無視してやるっ!!」
 毒吐きながら、リナはキャラハンに背を向けた。
カチャッ
ギュルッ
 エンジンがかかりにくいようだ。
カチャッ
 再度キーを回す音が夜の通りに響く。
ギュルッ ギュルルルッ
 エンジンがかかったらしい。
 キャラハンはアクセルを踏むだろう。

ゴガァアアアアンッ!!!

「きゃあっ!?」
 突然の爆風。
 リナの身体は地面に叩きつけられた。
 咄嗟に受身をとる。
 周囲の熱気と落ちていく火の粉。
 リナは振り返り、目を見開いた。
 ポルシェが宙返りし、ボンネットやドア、タイヤが吹き飛び、車体は上下逆で地面に落ちる。
 ポルシェは瞬く間に業火に包まれた。
「ト、トーマス!?」
 リナは悲鳴のような声を上げ、車に駆け寄ろうとした。

ゴガァアアンッ

 二度目の爆発。
「きゃああああ!!」
 リナの身体は吹き飛ばされた。
 通りの酒場から人がいっせいに出てきた。
 車はもうもうと黒煙を上げ、燃え盛る。
「誰の車だ!!」
「911に電話しろ!!」
「誰か中にいたのか!!」
「911を呼べ!!」
 取り乱した叫び声もリナには遠くの出来事のようにしか聞こえない。
 リナの腕を誰かが掴んで抱き起こした。
 誰かが酒場から冷たい布をもってきて、顔に当ててくれた。
「トーマス、トーマス・・・。」
 リナは恋人の名前を繰り返した。
「大丈夫、もう大丈夫だよ?」
 目の前の黒人の男性が優しく声をかけてくれた。
 周囲の人間も同意するように頷いた。
「もう心配ないからね。」
 優しい手つきで肩をあやすように叩いてくれた。
 サイレンの音がうるさいほど聞こえだして、人垣が少し減った。
 黒人の男性がリナを壁にもたれかからせてくれた。
「なんともないかい?」
 リナは呆然と首を振った。
「トーマスはどこ・・・?」
 まわりの人垣が顔を見合わせた。
「トーマスって誰だい?」
 黒人の男性が尋ねてくれた。
「トーマスはトーマス=キャラハンに決まってるじゃない。」
 トーマスはトーマスだ。
 何を聞いてくるのだろう。
「あの車に乗ってたのかい?」
「うん・・・。」
 リナは頷いて、目を閉じた。
 何も分からない。
 サイレンの音が高まり、低くなった。
 消防車が到着し、消火活動を始めた。
 帽子を被った男が近づいてきた。
 男は警察の身分証を掲げた。
「警察だ。通してくれ。」
 警察官はリナの前に膝をついた。
「ニューオリンズ警察のゼル巡査部長です。」
 耳は機能しているのに、理解することができない。
 リナは無言だった。
 ゼルはリナに顔を寄せてきた。
 目つきが鋭いなぁ・・・。
 リナは虚ろな目でゼルを見た。
「あれは貴女の車か?貴女のだという人がいたのだが。」
 リナはくいを振った。
「違うわ・・・。」
 ゼルはリナの肩に手を回し、リナを立たせようとした。
 リナの足に全く力が入らないことを見て取ると、彼はリナを横抱きに抱き上げた。
「大丈夫か、あっちにパトカーがある。」
 優しく声を掛けながらも、ゼルは早足で車へと進んだ。
 黒人の男性が不審そうにゼルを睨んでいたが、構わず消防車の裏を回って車にリナを乗せた。
「大丈夫か?」
「手当てしなきゃ・・・。」
 リナは両手で顔を覆った。
「救急車がすぐにくる。どこか、特に痛い部分はないか?」
 ゼルの手がおそるおそる伸ばされ、リナの肩を元気付けるように撫でた。
「ない、わ・・・。たぶん・・・。」
「少し質問させてくれ。貴女の名前は?」
「リナ=インバース。・・・ショック状態みたい、あたし。吐きそう・・・。」
 ゼルはもう一度リナの肩を撫でてくれた。
「大丈夫だ、救急車がすぐくるさ。あれは貴女の車か?」
「違うわ。」
 リナが返事をしたとき、パトカーのサイレンが鳴り響てきた。
 ゼルはちらりと後ろを見ると、ドアを閉めた。
 リナは目を閉じ、身体を丸めた。
 何も分からない。
 トーマスはどこ?


 ゼル登場!!
 リナはショック状態で、彼の顔はほとんど記憶に残していません。
(2005 4/9)