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がんがんがんがん
 窓ガラスを誰かが叩いている。
 リナは目を開けた。
 制服制帽姿の警官が車の中を覗き込んでいた。
 車はロックされていた。
 リナはドアを開けた。
「酔っているのか?」
 警官が尋ねてきた。
「酔ってないわ。」
「これは君の車か?」
「違うわよ。ゼルの車!!」
 当たり前のことを聞いてくる警官にリナは苛立った。
「ゼルというのは?」
「ゼル巡査部長よっ。」
 よく分からないまま、リナは目の前の中年の警官を睨んだ。
 警官は一瞬怯み、それから仲間と顔を見合わせた。
「ええと、とりあえず、出てきてくれないか?」
 警官は少し下手に出てきた。
 リナは車を降りた。
 顔や身体を煤で真っ黒にした青いワンピースの女性の姿に、警官たちは戸惑った。
 彼らの背後には燃え尽きたポルシェがある。
 この煤を被った女性は何者だろう。
「ええと、君の名前は?」
「リナ=インバース。」
「どうして、あの車で意識を失っていたんだね?」
「分かんないわよ。怪我をして、ゼルにここまで運ばれて・・・、ゼルはどこ?」
「ゼルって何者なんだ?」
 何度も言ったじゃない!!
 警官の質問にリナは怒りを覚えた。
「巡査部長だって言ってたわ。」
 警官は眉を顰め、口を開いた。
「怪我をした理由は?」
 リナは警官を睨み付けた。
「あの車に乗るはずだったの!!でも、乗らなかった。だから、ここであんたたちの質問に答えてるのよ!!ゼルはどこなの?」
 警官は困った顔をした。
「ちょっとここを離れないでくれ。」
 警官は小走りで駆けていき、スーツ姿で何やら話し合っている男たちに近づいた。
 警官は一人のスーツ姿の男を伴って戻ってきた。
「ニューオリンズ警察のオルスン警部です。あの車に乗っていた人物をご存知ですか?」
 オルスンはポルシェの残骸を指差した。
「あの車には・・・。」
 リナは膝から力が抜けそうなのに耐えた。
「あの車には、トーマス=キャラハンが乗っていました。」
 オルスンは頷いた。
「コンピュータの結果とも一致する。で、ゼルというのは?」
「警官だと言ってたわ。」
 オルスンは同情するような顔つきになった。
「申し訳ありませんが、ゼルという名の警官はおりません。」
 何を言っているの?
 リナは呆然とオルスンの顔を見詰めた。
 身体が自然と震えだしていた。
 オルスンがそっとリナの肩を抱いてくれた。
 リナの肩を抱きながら、オルスンは警官のほうを見た。
「ナンバーをチェックしろ。」
 警官は敬礼し、走っていった。
 オルスンはリナの目を覗き込んだ。
「貴女はキャラハンと一緒にいたんですね?」
 リナは頷いた。
 震えが収まってきたのを見て、オルスンは口を開いた。
「あの車に乗ったいきさつを教えてください。」
「ゼルという自称警官がやってきて・・・、わたしをここへ運んできたんです。それで、名前とかを聞かれて・・・、パトカーのサイレンが聞こえてきたらいなくなって。あたし、気を失って・・・。」
 オルスンは頷き、戻ってきた警官へ顔を向けた。
「わたしの車に乗せてやれ。」
「はい、あの・・・、このナンバーはコンピュータにありません。偽造プレートと思われます。」
 オルスンはリナの肩を抱いたまま、車へ連れて行ってくれた。
「わたしはこれから、この女性をチャリティ病院まで連れて行く。この件を報告したら、病院へ来るように。その車は牽引しておけ。」
 リナはオルスンの車から、ポルシェの残骸を眺めた。
 ポルシェは真っ黒の枠だけになっていた。
 オルスンが運転席に座り、車を発進させた。
「話はできますか?」
 リナは頷いた。
「ええ。トーマスは・・・、死んだのですね。」
「ええ、お気の毒に・・・ミズ=リナ。車に乗っていたのはキャラハンだけですか?」
「はい。」
「怪我はどうして?」
 リナはワンピースを握り締めた。
「爆風に吹き飛ばされて。爆発は2回あったんです。2回目の爆発で吹き飛ばされて。よく覚えていないんですけれど・・・。ゼルは何者なんですか?」
「分かりません。ニューオリンズ警察にその名はありません。」
 リナは徐々に冷静になってくる頭を感じていた。
「ミスター=キャラハンのお仕事は?」
「テューレーン大学の教授です。わたしはロースクールの学生なんです。」
「ミスター=キャラハンを殺したがっている人物に心当たりはありますか?」
 リナは青信号を見詰めた。
「・・・あれは意図的なものだったと確信がおありなんですか?」
「疑いの余地はありません。非常に強力な高性能爆薬です。現場から25メートル離れたフェンスに足の一部がひっかって・・・、すみません。」
 オルスンははっと口を閉ざし、謝った。
 リナは首を振った。
「ひょっとして、爆薬を仕掛ける車を間違えたんじゃ・・・?」
「その可能性もありますね。あらゆる観点から調査しますよ。ところで、貴女はあの車に乗るはずだったんですよね?」
 リナは頷き、俯いた。
 ワンピースを握りしめた手が震えだしていた。
 オルスンは華奢な女性の悲しみにくれる姿を同情の目で見ながら、車を運転した。
 オルスンは救急用入り口付近に車を停めて、リナを待合室に連れて行った。
 リナをベンチに座らせて、窓口へ行く。
「あと、2,3分で診てくれるそうですよ。呼ばれたら行ってください。私は車を移動させてきます。一人でも大丈夫ですか?」
「ええ。」
 オルスンの去っていく背中が見えなくなるまで、リナは見送っていた。
 オルスンが見えなくなってから、リナは周囲を見回した。
 泣き叫ぶ幼児や、今にも子どもが生まれそうな娘、赤ん坊を抱えた女性、誰もリナに注意を払っていない。
 リナはゆっくりと立ち上がった。
 大丈夫、立てる。
 リナは歩き出した。
 混雑する廊下を抜け、人気のないほうへ進む。
 途中鏡を見て煤けた顔に気づき、ハンカチで拭う。
 ハンカチは真っ黒になった。
 荷物運搬用の入り口から、リナは外へ出た。
 冷たい夜風に栗色の髪が靡いた。
 走るわけにはいかない。
 リナは唇を噛み締めた。
 注意をひきつけるわけにはいかないのだ。
 オルスンは戻ってきてリナがいないのを見ても、診察中だと考えて待つだろう。
 リナは観光客でごった返す通りに出て、安堵の息を吐いた。
 ホリデイイン・ホテルに入り、クレジットカードで宿泊代を払う。
 5階の部屋で、リナは鍵をかけ、ドアチェーンを掛けた。
 それから、ベッドに倒れこんだ。


 木曜の朝、バスルームで髭をそっていたヴァーヒークは妻に呼ばれて、そこから出てきた。
 ミセス=ヴァーヒークが受話器を突きつけてくる。
「あんたによ。」
 受話器を渡すと、彼女はベッドにもぐりこみ、すぐに寝息を立て始めた。
「もしもし?」
〈もしもし、あたしはリナ=インバース。あたしのことご存知ですか?〉
 ヴァーヒークはにやりと笑った。
 小柄で華奢で人形のように可愛いが、嵐のような女。
「ああ、もちろん。共通の友人がいるだろ?」
〈あたしの書いたつまらない仮説を読んだ?〉
「ああ、読んだよ。我々は『ペリカン文書』と呼んでいる。」
〈我々って?〉
 リナの声に鋭さが加わった。
 ヴァーヒークは思わず姿勢を正した。
 どうやら、友達気分の電話じゃないようである。
「何故、僕のところへ電話を?」
〈ミスター=ヴァーヒーク、答えてほしいことがあるのよ。〉
「ギャビンと気安く呼んでくれ。」
〈ギャビン、ね。いいわ。それで、あの摘要書は今どこにあるの?〉
「あっちこっちさ。どうかしたのかい?」
〈すぐ話すわ。まず、あの摘要書をどうしたのか教えて。〉
 低く鋭い声音に、ギャビンは息を飲んだが、頷いた。
「ああ、まず僕が読んで、別の部署へ回し、さらにFBI内部の人間が数人見て、最終的にガーヴ長官まで。彼は気にいっていたよ。」
〈・・・FBI外部には出ていった?〉
「それには答えられない。」
〈なら、トーマスがどうなったか教えないわ。〉
 ヴァーヒークは目を見張り、考えを巡らせた。
「わかった。イエスだよ。あの文書はFBI外部にも出た。誰の手によってか、何通今あるのかは分からないけどね。」
 電話線の向こうでリナが黙り込んだ。
 ヴァーヒークは待った。
〈トーマスは死んだわ。〉
 低いリナの声にヴァーヒークは動きを止めた。
「何だって・・・?」
〈夜中10時頃、殺されたの。誰かがあたしたちを狙って車に爆弾を仕掛けた。あたしは無事だったけど・・・。〉
「怪我はないかい?」
 ヴァーヒークは素早くメモを出し、ペンを握った。
〈肉体的には異常なしよ。〉
「今どこにいる?」
〈ニューオリンズよ。〉
「確信があるのかい?疑っているわけじゃないが・・・、キャラハンを殺したがるやつなんて。」
〈その内一人と顔を合わせたと思う。〉
「なんで・・・?」
〈話せば長くなるわ。あの文書は誰が見たの?トーマスが貴方に渡したのが月曜の夜。その2日後にトーマスは殺された。あたしも一緒に死ぬはずだったのよ。あの文書がマズい相手の手に渡ったということじゃないの?〉
 ヴァーヒークは考え込んだ。
「君は?リナ、君は安全なのか?」
〈分かんないわよ。〉
「どこにいるんだ?電話番号は・・・?」
〈焦らないでよ。これは公衆電話よ。〉
「待ってくれ、リナ。ちょっと考える時間をくれ。トーマスは僕の親友だったんだ。こっちに来てくれ。」
〈行ったらどうなるのよ?〉
「15分もあれば、捜査官をそっちに派遣できる。君を迎えに行かせるから・・・。いや、僕もすぐ飛行機に乗ってそっちにいく。正午までには行けるはずだ。」
〈どうして?誰が追いかけてくるの?教えてちょうだい。〉
「そっちに着いたら話すよ。」
〈・・・トーマスは貴方に話したから殺されたわ。〉
「僕には君が誰に追われているのか、なぜ追われているのかも分からない。でも、分かるのは君が危険だということだ。僕を信用してくれ。」
〈貴方は信用できても、他の人はどうか分からない。〉
「・・・あいつは苦しんだのか?」
 ヴァーヒークは目を閉じ、苦しそうに問いかけた。
「苦しまなかった・・・と、思う・・・。」
 声から鋭さが消え、途切れ途切れの声は震えていた。
 ヴァーヒークは優しく話しかけた。
「あと2時間したら、もう一回電話してくれ。オフィスの直通番号を教える。」
〈電話するかは後で決めるわ。〉
「リナ、頼む。本部に出勤したら、すぐ長官のところへ行くから。そっちの8時に電話をくれ。」
〈番号を教えて。〉


 リナは電話を切り、ホテルに戻った。
 タイムズ紙の朝刊には爆発の記事はなかった。昨夜遅くのことだったからだろう。
 テレビをつけた。
 ニュースで報道が流れる。
 焼け焦げたポルシェの映像。
 容疑者不明。
 警察は殺人事件と同様の態度で捜査に臨んでいる。
 被害者はトーマス=キャラハン。
 テューレーン大学、学長がマイクをつきつけられ、悲痛な表情で事件の衝撃について語っていた。
 リナは手早く服を脱ぎ、バスルームに駆け込んだ。
 蛇口をいっぱいに回す。
ザアアアアアア
 勢いよくシャワーがリナへと降り注いだ。
 降り注ぐ熱い雫とは別の温度をもつものが頬を流れた。
 リナの嗚咽はシャワーの音にかき消された。
 トーマス!!トーマス!!トーマス!!
 リナは震える肩を抱きしめた。
 今後しばらく泣くわけにはいかない。
 めそめそしていたら、命取りになりかねない。


 リナらしさが出てきましたかね・・・。(2005 4/9)