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 大統領は執務室のデスクで、窓の外を見詰めていた。
 目障りなローゼンバーグは死んだ。自分の清潔なイメージには磨きがかかった。解決の舵取りをしていることで、国民からも好感情を抱かれ、来年の再選は間違いなさそうだ。
 大統領はうんざりとした。
 緊急事態も夜明け前の会議も嫌いだ。
 ガーヴは選んだ微小な情報しか渡してこない。ゼロスも情報を小出しにしかしない。そんな断片を渡されても全貌が分かるわけが無い。救いといえば、自分にはフィブリゾがいて、彼が渡された情報の全てを記憶し、ガーヴとゼロスを従わせることができることぐらい。
 フィブリゾにもうんざりとする。
 睡眠時間が平均四時間なのも、1秒刻みのスケジュールも、全ての意見書や法案を記憶できることも、できない人間を遠慮なく首にすることも、ガーヴを追い詰めるときに、やたらと嬉しそうな顔をすることも。
 大統領は秘書からメモを受け取るフィブリゾを見た。
 相変わらずどこにも隙が無い。うんざりとはしているが、今回の件が解決し、ゴルフ三昧の生活に戻って雑務をフィブリゾに押し付けられるようになれば、嫌悪もしなくなるだろう。
 フィブリゾがにっこりと笑った。大統領には悪魔の笑みに見えた。
「ガーヴは私と話したくないようです。」
「あの男は、君を好きでないようだ。」
「ここらで思い知らせてやる必要がありますね。・・・あの仮説は荒唐無稽なものですが、それでもガーヴの手にかかれば危険なものとなりえます。」
 大統領は『ペリカン文書』にもうんざりとしていた。しかし、フィブリゾがそう言うからには気にするべきなのだろう。
「例の、ロースクールの学生はどうした?」
「調査中ですが、害のなさそうな人物です。」
「そうか。」
 大統領が頷くのを見て、フィブリゾは微笑んで執務室を出た。
 大統領はこの部屋に3台のカメラがあって、別室から監視できることを知っていた。別室の鍵をフィブリゾだけが持っていることも知っていた。
「では、わたしは席を外します。」
 フィブリゾが出て行って、しばらくしてからガーヴがやってきた。
 大統領は笑みを浮かべながら、フィブリゾが監視してくれていることを思い出して己を奮い立たせた。
 気さくな会話をしながらソファにガーヴを座らせる。
 ガーヴはこの部屋にカメラとマイクがあることを知っていたが、堂々とした態度を崩す気など勿論なかった。
「ガーヴ、フィブリゾのことではすまないと思っている。あの男は気遣いとは無縁の男なんだ。」
 ガーヴは微かに頷きながら、大統領を鼻で笑った。
 馬鹿な男だ。その「気遣いとは無縁」という評価をフィブリゾが聞いていることを知っているだろうに。
「フィブリゾは聡明で熱心な男だが、ときに勇み足なのだ。」
「あの男は、ろくでなしですよ。」
 ガーヴは野太い笑みを浮かべて、トーマス・ジェファースンの肖像画を見た。そこに隠しカメラの一つがあることは知っていた。
「わかったわかった。この件が片付くまで、あの男に君の邪魔はさせないようにする。」
「お願いします。」
 ガーヴはゆっくりと頷いた。
 大統領はコーヒーを啜り、気を落ち着けた。
「実は、頼みたいことがあってね。」
「なんでしょう?」
 ガーヴの目が鋭く光った。
 野生の獣は獲物を見定めるとき、こういう目をするのではないだろうか。
「例のペリカン文書の件で、誰よりも早く情報を掴みたい。わたしの名前に言及されていることだし・・・。君はどの程度真剣にこの問題に取り組んでいるのかい?」
 ガーヴは笑わないように気をつけなければならなかった。
 大統領もフィブリゾも、あんなタチの悪いジョーク紛いの文書に震え上がっている。
「調査は進めております。我々はあらゆる手がかりを追っております。ですから、真剣に取り上げないものは最初から選んでおりません。」
 大統領が思わし気に眉根を寄せた。
「これまでに判明した事実は?」
「大したことはまだです。捜査にとりかかったばかりで。事実の究明のために14人の捜査員をニューオリンズには向かわせております。」
 予想外の人数の多さに、大統領は目を見開いた。
 ニューオリンズで捜査員がバッジを見せびらかしながら質問している姿が脳裏に浮かんだ。
 まさに悪夢だ。
「ずいぶん、真剣なようだな。」
「無論です。2人が殺されてから既に1週間。時間の経過と共に手がかりは薄れてしまう。わたしの部下は昼夜を問わず、捜査を進めております。」
「それは、分かるが・・・。ペリカン文書の仮説は、どの程度信憑性があるのだね?」
 ガーヴは腹を抱えて笑いたいのを堪えた。
 本当はあの文書はまだニューオリンズに送ってもいない。ラーシャートには隠密裏にいくつかの質問をするように指示はしたが、何も出てこないに違いない。
「関連性があるかどうかは疑わしいのですが、確認は必要ですので。」
 大統領は、国民に人気の高い笑みを浮かべてみせた。
「言うまでもないことだが、その文書がマスコミに漏れれば我々はかなりの打撃をうけるのだぞ。」
「捜査中の内容について、マスコミに相談などいたしません。」
「わかっているよ。しかし、どうだろうか。この件には関わらないというのは・・・。無意味であるし、そのくせわたしに塁が及びかねん。わかってくれるか?」
 ガーヴはほんの少し首を傾げた。
「つまり、容疑者を無視しろとおっしゃる?」

 監視カメラを見ていたフィブリゾは拳を握り締めた。
「そうじゃなくて、ペリカン文書の存在を忘れろと言っているんだ!!僕なら、あの馬鹿に分からせてやれるのに。」
 怒りの声を発してはいても、この交渉は大統領がするべきだとフィブリゾには分かっていた。

 大統領は姿勢を正した。
「ガーヴ、わたしの言いたいことは分かるだろう?他にも大きな魚が池にはいる。そちらを追うべきではないのか?冗談のような文書だが、あれはわたしを非常に困った立場に追い込みかねないのだ。そうそう、カーメルというのはどうなったのだ?」
「可能性はあります。」
「カーメルには何人割り当てているのだ?」
「15人です。」
 ガーヴの答えに大統領は目を剥いた。
 ペリカン文書が14人で、カーメルが15人。
 大統領は、報告書にカーメルには30人当たっているとあったことを忘れていた。
「なんということだ。なぜ15人だけなんだ。わたしの見たところ、事件解決の大きな糸口となりそうだというのに。」
 ガーヴは宥めるような笑みを浮かべた。
「あるいは、15人より多いかもしれませんね。私自身も調べておりますし。」
「分かっているよ。君がいい仕事をしていることぐらい。わたしは君の邪魔をしたいわけではない。ただ、時間の振り分けを考えて欲しいだけなのだ。あのペリカン文書を読んだとき、正直吐きそうになった。マスコミがあれを知れば、喜んで魔女裁判を行うに違いない。」
 ガーヴは大げさに目を丸くしてみせた。
「つまり、私に手をひけ、とのご依頼で?」
 大統領は目を見開、ガーヴを睨み付けた。
「依頼などしておらん!この件に関わるな、と言っておるのだ。2週間はこの件を無視したまえ!!再燃するなら、また調べればよいことだろう。」
 大統領の表情はガーヴに何の脅威も与えなかった。彼は大統領の睨みなどより余程質悪い笑みを浮かべた。
「それでは、取引を。閣下の腰ぎんちゃくのフィブリゾはマスコミをつかって我々にダメージを与えようとしました。ローゼンバーグらの身辺警護が不適切であったと非難を浴びたのです。閣下には、我々からあの狂犬を引き離していただきたい。そうすれば、私もペリカン文書の件は忘れましょう。」
「取引きなど・・・。」
「なら、ニューオリンズに捜査員をさらに30人ほど送り、バッジを見せびらかせるようにしましょうかね。」
がたっ
 大統領はデスクから立ち上がった。窓まで歩き、庭を見下ろして息を吐いた。
「わかったよ。取引き成立だ。」
 ガーヴは立ち上がり、ゆっくりとデスクへと近づいた。胸板の厚い男は、大型の肉食獣のような足取りで、無言の圧力をかける。
「わたしは、フィブリゾを信用していません。もし、我々の捜査にヤツの臭気が漂ってきたら・・・。」
 大統領は微笑を浮かべて見せた。
「取引きは成立だよ。」
 ガーヴは少し柔らかめの笑みを浮かべた。

 フィブリゾはにっこりと笑みを浮かべた。
 腰ぎんちゃく、狂犬、そう言われる者が伝説を作るのだ。
 モニターのスイッチを切り、フィブリゾは部屋を出て鍵をかけた。
 自分のオフィスに戻り、メモを作成する。
 ときに、出現し流れ流れてマスコミの手に落ちるメモは"幽霊メモ"と呼ばれている。
 "幽霊メモ"が出現した場合、フィブリゾは声高に非難するが、ここ数年の"幽霊メモ"の発信者は彼であることも多かった。
 フィブリゾは出来上がったメモを見て、微笑んだ。
 内容は暗殺者カーメルについて。
「さて、これがワシントン・ポスト紙かニューヨーク・タイムズ紙に載るまでどのくらいかかるかな?」
くすくすくす
 オフィスにしばらく彼の笑い声が響いていた。


 ガーヴは飛行機でホワイトハウスに行っていた。そのあとでニューヨークに向かい、帰ってくるのは明日らしい。
 ギャビン=ヴァーヒークは副長官ラルタークのオフィスでじっと待っていた。
 ラルタークはオフィスに入ると、訝しげにヴァーヒークを見た。
「怯えた顔ですな。」
「たった今、親友を亡くしたんです。」
 ラルタークは無言で先を促した。
「友人の名はトーマス=キャラハン。僕にペリカン文書をもってきた男です。あの文書があちこち流れ、ホワイトハウスやその他にも流れたと思ったら・・・キャラハンが死んだんです。昨夜、車に爆弾を仕掛けられ粉微塵に。・・・殺人です。」
「それは気の毒に。」
「気の毒がってる場合じゃありません。どうやら、その爆弾はキャラハンとあの文書を書いた女子学生に向けられたようなんです。リナ=インバースという娘で。」
「文書の表紙で見たな。」
「その子です。彼らはデート中で、ふたりで車に乗る予定でした。けれど、彼女は生き延びて、僕に電話してきたんです。」
 ラルタークは一応話を聞いていたが、既にこの話を念頭から捨て去っていた。
「爆弾かどうかの確証はないのだろう?」
「彼女は爆弾だと。轟音がして、すべて吹き飛んだんです。キャラハンは死にました。」
「その男の死と文書の間に、何らかの関連性があると見ているのだな?」
 ヴァーヒークはラルタークが自分の話を戯言だと考えていると、この話に乗り気でないことが分かった。
「十分考えられると思います。そう思いませんか?」
「どうだっていいのだよ、ギャビン。長官とさっき話したんだが、ペリカンの件は中止になった。そもそも捜査さえ開始されていたかどうか・・・。ともかく時間をつぎ込まないことになったんだ。」
 ヴァーヒークは目を見開いた。
「しかし!!友人が車に仕掛けられた爆弾で死んでいるんですよ!!」
「残念な話だな。しかし、現地の警察当局が捜査を進めているだろう。」
「話を聞いてください!頼まれてくれてもいいじゃないですか。」
「頼まれることなどできない。ただでさえ、山ほどのウサギを追いかけているのだ。長官の命には我々は従わざるをえない。長官に直訴するのは止めはせんが、お勧めはできんぞ。」
 ヴァーヒークは信じられないというように頭を振った。
「僕は、話くらいは聞いてもらえると思ってました。」
 ラルタークは老けて見られる原因になっている長い真っ白な眉を下げた。
「顔色が悪い。今日はゆっくり休んだらどうだね?」
 ヴァーヒークは激しく頭を振った。
「とんでもない!!一時間したらまた来ます。」
「駄目だ。長官は止めると明言したのだ。」
「彼女は・・・キャラハンが殺されて、どこかに隠れて怯えて・・・助けを求めている。なのに、多忙だとつっぱねるんですか?」
「残念だと思う。」
「口先だけですね。・・・僕の失敗です。あんな文書、ゴミ箱に捨てちまえばよかったんだ・・・。」
「あれでも、重要な目的達成に役に立ったよ。」
 ラルタークはヴァーヒークの肩に手を置いた。
 時間切れを示す仕草であり、愚痴は聞かないという仕草であった。
 ヴァーヒークは慌ててその手を振り払った。
「そうでしょうね!!いいおもちゃになったでしょう!あんなもの、燃やしてしまえば・・・。」
「燃やすには惜しいものだったよ。」
「諦めませんよ。一時間後にまた来ます!!」
 ヴァーヒークは荒々しく部屋を出て行った。


 リナは〈ルビンスタイン・ブラザーズ〉の店にいた。そこで、男物の服を見たがサイズが合わず、キッズの男物のパーカーと大きめの帽子とサングラスを買った。
 トイレで着替え、帽子に豊かな栗色の髪を押し込んだ。これで、サングラスをかけた少年に見えるだろう。
 リナは人ごみにまぎれてシェラトン・ホテルに入り、公衆電話へ行くと、まずアパートメントの隣室に住むミス=チェンに電話を掛けた。
「おはようございます、ミス=チェン。変な質問なんですけど、あたしの部屋の近くで誰かの姿を見たか、誰かの声を聞いたとかはありません?」
〈おはよう、リナ。ひどく早い時間にドアをノックする音が聞こえてきましたよ。まだ暗い時間だったんだけれど、その音で目が覚めてねぇ。誰の姿も見てないわ。ノックの音がしたぐらいよ。〉
「えっと、あたしの車まだあります?」
〈道にちゃんとあるわよ?〉
「変わったこととかありませんでしたか?」
〈ないけど・・・。〉
「ありがとうございました。」
 リナは電話を切ると、深呼吸を繰り返した。
 朝早くの訪問者。
 誰だろう。
 姿を消したあたしを心配したオルスン警部とか・・・。
それとも、爆弾を仕掛けた誰かか。
 リナはメモを取り出し、ヴァーヒークへの直通番号をプッシュした。
 秘書に3分間は名乗ることを拒み続け、なんとかヴァーヒークに繋いでもらう。
〈どこにいるんだい?〉
「説明させて。とりあえず、誰にも所在は言えないわ。」
〈わかった。君のルールに従うよ。〉
「ありがと。で、長官はなんて?」
〈長官はホワイトハウスに行っていて連絡がつかない。今日中には何とか直接話す機会を見つけるつもりだが。〉
 リナは拳を握り締めた。
「随分頼りない話ね。オフィスにもう4時間はいるのに、なんの進展もしてないなんて。」
〈短期は禁物だよ。〉
「のんびりしてたら殺されちゃうわ。あいつら、あたしを追いかけてるんでしょう?」
〈分からない。〉
「いい?自分が殺されるはずだったという事実を知っていて、しかも、自分を殺そうとした連中は既に最高裁裁判官を2人殺してる。一介の法学教授を吹っ飛ばして、しかも何十億ドルというお金をもっている。その状況で貴方ならどーするの?」
〈FBIに行くだろうな。〉
「何もしてくれないじゃない。」
〈だが・・・。〉
ふう
 リナは大きな溜息をついた。
「あたしが気にしてるのは、明日まで生きていられるかどうかよ。」
〈アパートメントには帰るなよ。〉
「そこまで馬鹿じゃないわよ。今朝、誰かが来たらしいし。たぶん、トーマスのアパートも監視されてるでしょうね。」
 話しながら目線を動かしたリナは、ふとある男に気がついた。
 ロビーでゆっくりと歩いている痩せた顔の細長い男。
 新聞を手にして、ためらいがちに進む観光客を装っているが、視線であちこちを探っている。
 怪しい。
 ひょっとしたら、単に周囲を探る癖があるだけかもしれないけれど、ルビンスタイン・ブラザーズの近くでも見かけたことを考えると―――。
「ギャビン、痩せ型長身、30代の眼鏡、細い顔、黒い髪は生え際後退気味、そんな男がまたいたの。」
〈誰のことだい?〉
「ちゃんとした知り合いじゃないもの!」
〈君を見てたのか?いったい、どこにいるんだい?〉
「ホテルのロビーよ。見られてたかどうかは、分かんない。も、行くわ。」
〈リナ!とにかく、僕との連絡を絶やさないでくれ。〉
「努力するわ。」
 リナは公衆電話を後にすると、洗面所へと向かった。
 一番奥の個室に入り、1時間してからホテルを後にした。


 フィブリゾは大統領とか相手じゃなければ、『僕』を使います。(2005 4/21)