今宵は満月。
 皓々と輝く月が、冴え冴えとした光を放つ夜。
 リナは眠る努力を放棄し、ベッドを降りた。
 窓に近づくと、月光に黒々とした影が床に描かれた。
 白く小さな手が薄く開いていた窓を押した。
 冷たい夜風が吹き込み、栗色の髪が靡いた。
 乱れた髪を手櫛で直し、リナは夜空を見上げた。
 圧倒的な存在感をもって、満月が夜に君臨している。
 いつもは豪奢に空を飾る星でさえも、その輝きの前に色褪せてしまった。
「浮遊。」
 小声の呪文によって、リナの身体が重力から解放される。
 窓を抜け出し、リナは宿屋の屋根の上まで昇った。
 屋根に降り立つでもなく、ただ月を見上げて漂う。
 リナのほっそりとした身体が月光に照らされる。
 その清冽な輝きに自分の中の汚れや泥々としたものが清められていくような心地がする。
 錯覚なのは十分承知しているのだが。
 
「リナ。」
 
 低い声が響いた。
 大声ではないが、静寂の中、その声はよく響いた。
 空気を伝い、自分を震わせる声に、リナは一瞬瞳を閉じた。
 その響きが自分に浸透した余韻を一瞬だけ閉じ込める。
 目を開いてから、ゆっくりと振り返って見下ろすと、いつの間に上がったのか、屋根の上にガウリイがいた。
 蒼い瞳がリナを真っ直ぐに貫いている。
 降り注ぐ月光にも似て、その眼差しはリナの何もかもを照らし出しそうだ。
 夜風に揺れる金髪は月光に輝き、月が光を纏うように彼を彩り、その存在を夜に示す。
 パジャマ姿というのが少しだけ間抜けかもしれない。
 リナは少し笑った。

「リナ。」

 再び呼ばれた。
 心地よくリナに浸透するその声に、淡い笑みを浮かべる。
 ガウリイの腕が差し伸べられた。
 躊躇いなくその手は差し伸べられる。
 月のように道標を示している。

 リナは術を制御し、ゆっくりとガウリイの元へ降りながら自らも手を差し伸べた。
 小さな手が大きな手に触れると、ガウリイはその手を掴み、自分のほうへ引き寄せた。
 細い身体は大きな身体に抱きとめられた。
 海底の海藻のように揺らめいていた髪が術の影響から解かれ、ふわりと舞い落ちた。
 細い腰に回した片腕の力は緩めず、白い頬に掛かった栗色の髪をガウリイはもう一方の手でかき上げた。
 片手でリナの髪を梳き下ろしながら、ガウリイはリナの耳に唇を寄せた。
「冷えてるな。」
 低く囁かれ、リナの身体がぴくりと跳ねた。
 リナを囲い込んだ腕はその位では揺らがない。
 不安定な足場などないかのように、そびえ立つ。
 常にその存在はリナをここに繋ぎとめる。
「月光浴してたのよ。」
 ようやくリナは言葉を吐いた。
「あんまり光が強いから・・・。」
 鈴を震わせたような声が囁いて夜に溶ける。
「そうか・・・。」
 リナの髪に顔を埋めた男の声はくぐもっていた。
 リナは目を閉じて、自分を覆うガウリイの熱を感じた。
 冷えていた身体に徐々に熱が戻ってくる。
 隅々まで月光で満たされていた自分の内が、今度はガウリイで満たされる。
「確かに綺麗な月だな・・・。」
 身体が触れているため、直接響いてくる声がさらにリナを揺さぶる。
「うん、もう少し見ていたい。」
 リナはゆっくりと身体をガウリイから離した。
 僅かに2人の間にできた隙間、そこにも月光が差し込む。
 再び月光がリナを満たそうとするが、背に腰に回された腕の熱が月の支配を許さない。
「風邪引くぞ。」
 降り注ぐ声が月光よりも強くリナに染込んでくる。
 リナは微笑んでガウリイに背を向け、月を振り仰いだ。ガウリイの腕は彼女の動きを阻むことはなく、また、彼女から離れることもなかった。
「いてくれるんでしょ?」
 その存在がリナを守るはずだ。
 背を預けても、男は揺らがない。
「当たり前だろ。」
 回された腕に力がこもった。
 密着した背中と肩を覆う熱がゆっくりとリナを侵食する。
 月光よりも深く、彼女の内の隅々まで優しく絡めとる。
 リナは月に目を細め、流れ落ちる金糸に微笑んだ。


中秋の名月に因んで。(2005 9/19)